石川浩子インタビュー
90年代よりダンサー・振付師として活動してきた石川浩子が、ダンサーや振付師の歴史を紐解くべく、70年代よりダンス界や歌謡界で活躍してきた方々にお話をお聞きしました。
三浦亨 Profile
【主な経歴】
1970年、西条満の元でダンサーとしてデビュー。
1973年に天地真理「恋する夏の日」で振付師としてデビュー。
1970年代中盤から1980年代まで、 中森明菜「十戒」、アン・ルイス「六本木心中」、荻野目洋子「ダンシング・ヒーロー」、本田美奈子「Oneway Generation」など、多くの80年代アイドルを振付。
1997年から、ピチカート・ファイヴなどの振付を担当。
2008年、『クイズ!ヘキサゴンII』から生まれたユニット羞恥心の「羞恥心」の振付けを担当。以後、ヘキサゴンから生まれた曲の振付けのほとんどを担当。同年の『第59回NHK紅白歌合戦』で羞恥心 with Pabo「羞恥心〜陽は、また昇る 紅白スペシャル」の振付けを担当し、バックダンサーとしても出演。2009年には遊助(上地雄輔)の楽曲「海賊船」のPVにも出演している。

Interview
今日は70~80年代のダンサーの実態についてお話いただきたいと思います。
よろしくお願いします。
——— 三浦先生ご自身がダンスを始めたきっかけは何ですか?
三浦: 最初は、役者になろうと思って日芸に入りましたが、『ウエストサイド物語』を見て、「役者はこの先ダンスも踊れた方が得だ!」と思ってダンスを始めました。ダンサーとしての実力はゼロだったけど、先見の明があったのかな(笑)。
あとは、日芸を卒業しても、もう一回劇団の養成所に入らなきゃいけないのが嫌だったし、ダンサーは特殊技能を持ってるから、仕事の依頼が来た場合、最初のギャラ設定は役者より高かったから「ダンサーはちょろい」と思ったのもあります(笑)。ただ、役者は金額が上がっていくけど、ダンサーはそこから金額が上がっていかないんだけどね。
とにかく真面目じゃなくて楽に生きようとしてたし(笑)、〝いい加減〟じゃなくて〝良い加減〟に生きようと思っていました。
——— 具体的にはどのような生活だったのでしょうか?
三浦: 大学卒業してから2年間くらいは親から部屋代は貰っていたけど、あとはなんとかダンスで食べていました。今考えるとどうして食べれていたのか分からない(笑)。実家が宮城なので親がお米は送ってくれてたからでしょうか。
僕は大学を出てから一回も他のアルバイトをしていないんですよ。有名な振付師である西条満先生のアシスタントをしていた時代があって、そのときは電話番くらいはやってたけどね。アルバイトをする時間があったら、「西条先生の振付を見に行きたい」というダンスを勉強したい気持ちの方が強かったんですよね。西条先生のアシスタントについた理由は、アシスタントしたらレッスンを受けなくても現場で西条先生の教えをタダで受けれるからです。それに、尊敬する西条先生にいい振付をしてもらうためでもありました。
——— たくさんいたダンサーの中から、アシスタントに選ばれたということですよね?
三浦: 自分が踊れなくたってアシスタントはできますから。例えば自分がシングルしか回れなくても「ここダブルな」と口で言えばいいからね(笑)。西条先生に付いてたのは何年くらいだろうな。事務所を作ってからはあまりいかなくなったかな。
僕自身はアシスタントをつけませんでした。遊びに来るような後輩くらいはいたし、他から「三浦先生を手伝ってあげて」という感じでたまにアシスタントは来るけど、お抱えのアシスタントなどはいなかった。理由は、面倒くさいから(笑)。あとは、時代が違うからしょうがないけど、僕が西条先生の弟子だった時代は、師匠から教えてもらうのではなくて「師匠から盗む」と思っていたし、例えば西条先生が振付したものを「師匠はこういうことをしたいんだな」と想像して動いたり、弟子は師匠より先に動くものだと思ってたけど、今はそういう子がいないですからね。
僕たちの時代は映像がないから、絶対覚えるしかなかったけど、今は映像があるから覚えないんですよね。コミュニケーションを取ろうとせず、映像でカッコだけ覚えるみたいな子が多いから、振付していてたまらないときがありますね。
でも、ギャラが少なくても来てくれたアシスタントには「それでもやってくれるんだったら、俺がやった振付をそのまま使ってもいいし、現場にいるスタッフに自分の名刺バラまいてもいいよ」と言っています。それで仕事とられたこともたくさんあるけど、困ってないから、別にいいと思っています(笑)。
——— 三浦先生は、有名な歌手の振付をたくさんしていますよね。
三浦: 僕は踊りが上手くないからイマジネーションで振り付けているんです。でも、振付したもので、自分がいいなと思ったものはなぜか残らないんだよね。作品として作ったものもあるけど、僕は気に入っていても反応はイマイチ(笑)。自分ではいいと思っていても気張り過ぎてつまらないのかもしれないですね。残っているものとして、中森明菜の『十戒』の振りは、僕の振付を明菜がアレンジしてくれているもの。僕はニュアンスが一緒なら何をやってもいいという考えなんです。
キャンディーズの『年下の男の子』のときも、それまでキャンディーズは売れていなかったんですが、伊藤蘭を真ん中にしたということは事務所も遊んでいるんだなと思って「遊んでいい?」と確認し、一番オイシイ「♪年下の男の子~」という歌詞のところで、客をバカにするような(両手で親指を下にする)振付にしたら、西条先生が「三浦、これはマズイだろ」と直されて今の振付になったんです(笑)。
——— 歌手やバックダンサーの振付をするときに気を付けていることはありますか?
三浦: まずは、ダンサーと歌手がケンカしてはダメだと思っています。振り付けるのは簡単だけど、歌っている人より振付が目立ち過ぎたり、歌っている人を消したら絶対にダメ。例えば、西条先生が振付したキャンディーズの振付けも、絶対にキャンディーズが目立つように振り付けしています。
——— 確かに、バックダンサーが目立ち過ぎるのはよくないですよね。
三浦: バックダンサーが歌っている人を殺さないようにしないと。だから僕はバックダンサーに「踊るな」と言っています。「お前がカッコつけちゃダメ」と。自分の発表会ならいくらでも出ていいけど、要は盛り上げ隊ということを忘れず、その振付を何のためにやっているかということを考えてやらないとダメすね。その代わり「間奏は思いっきりいけ!」という(笑)。今もそうだけど、すごく素敵な振りでも、踊っているダンサーが何も考えないでただ動いているだけと腹が立ってきます(笑)。
でもそこは、レッスンだと詳しく説明できるけど、振付だとそこまで細かく説明できないから、あとはダンサーがどう感じてくれるかにかかっているんですよね。「この振付はこういう気持ちでこうやりたい」と言ったときに、動きだけじゃなくて心がないとダメなやつっていっぱいあるから、そこを感じてくれるかくれないかが重要ですね。
例えば、僕は、武部さん (※1) の曲を振付するときも、彼は古い音楽をそのままやったり今の感じにしたりと、そのときによってアレンジが違うので、昭和ポップスをあえて昭和っぽいままにしてる曲があったら「これはあえて?」と必ず聞くようにしています。あえてならバックダンスの振付も昔っぽいほうがいいし、そういうことを、音楽を作る人とお互い感じ合って振付をするようにしています。今のダンサーはどんな振付でも今の感じで踊っちゃうから、「ごめん。これ昔のやつだから」とよく注意していますね。曲に対する向き合い方の問題なんですよね。
——— 他に、何か振付をするときに気を付けていることはありますか?
三浦: 遊び心ですね。例えば西条先生が振付したおニャン子クラブの「セーラー服を脱がさないで」なんて、めいっぱい遊んでいる(笑)。「♪脱がさないで」という歌詞なのに、ボタンを外してずり下げて脱いでいるし、最後の「♪あげない」という歌詞でも、手の動きはあげている。そういう裏の遊びがある。振付にハートがあるんだよね。
例えば、ジェローム・ロビンス振付の映画『ウェスト・サイド・ストーリー』も、オープニングダンスの衣装のスーツの裏地がルトリコ系とポーランド系の色だったり、遊びがあるんだよね。
——— 当時の歌謡界のお話もお聞きしたいのですが、テレビでは「スクールメイツ」というグループが歌手のバックダンサーをしていた記憶があります。
三浦: そうですね。スクールメイツは、東京音楽学院という学校の生徒で構成されていたんだけど、渡辺プロダクション創業者の渡辺晋さんの奥さんである渡邊美佐さんが、海外に行って向こうのエンターテインメントに刺激を受けて「こういうのを日本で作りたい」と、東京音楽学院を作ったと聞いています。
創立メンバーは、西条満氏・土井甫氏の2人の先生がメイン。あとは、アメリカのダンスカンパニー「アルヴィン・エイリー・アメリカン・ダンス・シアター」に入団して、その後副芸術監督にも就任した茶谷正純氏も教えていました。スクールメイツ自体は、当時渡辺プロダクションに所属していたタレントさんが、デビューする前の養成コースや新人コースみたいな感じで、まずはスクールメイツに在籍してダンスや歌の稽古も兼ねて存在していた感じです。高橋真梨子さん、布施明さんなど、森進一さんなども在籍していましたね。当時はあまりこういうスクールがなかったから、西城秀樹さんなど、他の事務所からも預かる形でスクールメイツにきていました。スクールメイツの出身は、東京では太田裕美さん、キャンディーズなど数えたらきりがないくらいいます。
そこから、何千人の中からオーディションでピックアップされて所属するような、元ジャニーズ事務所でいうジャニーズJr.のような存在になっていきました。
僕は、講師として、スクールメイツと東京音楽学院のレッスンもしていました。
——— バックダンサーとして存在していたわけではないのですね?
三浦: 一応、音楽学院だから、ダンスより歌のレッスンの方が多かったけど、テレビ出演となるとバックダンサーになるから、踊りでの露出が多かったんだよね。
よくやっていたのは、渡辺プロの歌い手さんの後ろで踊るだけじゃなく、渋谷駅の東横線のところにあったデパートの屋上で歌って踊ってのショー。テレビ番組「ドリフ大爆笑」のオープニングのバックダンスや、日劇にも出たりしていました。実はスクールメイツ名義で『虹と雪のバラード』などレコードも出しているし、万博の歌も録音しましたよ。
そんな感じで、最初は渡辺プロに付随する養成場所的な存在だったものが、レッツゴーヤングあたりから、スクールメイツが独立してダンスグループ化していった。一時はプロのダンサーがスクールメイツには敵わないというくらいのレベルだった。スキルも音の取り方もね。僕は、当時スクールメイツを厳しく鍛えていたのですが、その理由は、スクールメイツが上手くなったら西条先生がどんどん難しいけど素敵な振付するから、それを盗もうと思っていたからです(笑)。
——— スクールメイツは女性だけだと思っていましたが、男性もいたのですね。
三浦: 元を正せば渡辺プロダクション所属のタレントさんだからずっと昔は男子もいましたよ。レコードジャケットには男女で写っています。男女でスーツを着たりして踊ってもいたけど、理由は分からないけど途中からおなじみのテニスルックになったんです。テレビ番組「レッツゴーヤング」よりもっと前あたりかな。おそらく、バックダンサーでの出演は男性歌手のバックが多かったから圧倒的に女の子のほうが使われたんじゃないかと思います。 男はきれいじゃないじゃないから(笑)女の子だけになってしまった。
——— スクールメイツの平均年齢はどのくらいだったのでしょうか?
三浦: スクールメイツのオーディションに参加できる年齢は14歳からと聞いたことがあるから、メンバーはほとんどが高校生だったと思います。当時の稽古場が渋谷にあったので、「渋谷の駅までは普通の高校生な!」と教えていました。
渡辺プロに所属して歌の稽古している人たちは20歳とか高校生より上もいたけど、その子たちにも、イメージを守るために、「タバコも酒は絶対NG!」と言っていました。
——— 当時の歌番組のバックダンサーはどうやって選ばれていたんですか?/p>
三浦: 昔は歌番組ごとに専属のダンサーがいました。1970年代のTBS系列の番組「Sound Inn S(サウンドインエス)」は、女性グループでは、ホリデーガールズ (※2) (名倉加代子氏などが在籍)、BMCダンサーズ (※3) 、男性グループは、男性4人組のギャラクシー(裕幸二、須山邦明、ヨシ氏(※現在劇団四季に所属)、関氏)や、ダンディーズなどがいました。その後は、フジテレビ系列「夜のヒットスタジオ」のDee-Deeなどですね。Dee-Deeは西条先生がちゃんとオーディションして集めていましたね。
おそらく、海外では必ずバックダンサーがいるから、それ見た番組側が真似したんじゃないかと思います。グループのネーミングは意外にいい加減で、西条先生と小井戸秀宅先生の2人は、振付料は出るけど、出演は「ちょっと出てよ」と言われて出る感じだったから、ノーギャラダンサーズという名前にしたりね(笑)。西条先生のイニシャルをとって、MSダンサーズと名付けたときもあった。当時は、同じダンサーが、西条先生の振付で出るときはMSダンサーズとして出て、他の所に行くと違うグループ名で出るみたいな感じでした。
——— では、番組専属の振付師がいて、その振付師がダンサーを集めていた、というような形ですか?
三浦: だいたいそうですね。西条先生は当時、振付師としてレギュラー7~8本あったと思います。アシスタントも8人くらいいました。だから、A君に振りを渡したら次の現場に行って、次のところでB君に渡して…みたいな感じで1日のうちに何曲も振付けしていた。僕は一時いたけど、8人いても先生の稼ぎ一緒だし、事務所も一緒だから、下のやつらを残して俺は違う方へ行こうと。でも、アシスタントで回らないときは俺のところにきていた。クリスマスシーズンになると「もう俺クリスマスメドレー100回は振付したよ」と言っていたくらい。同じ曲を違うタレントに振付するわけだから絶対同じじゃダメという中で、「もう嫌だ」とよくボヤいていました(笑)。
振付師は他にもたくさんいたと思うけど、使える人がいなかったんだと思う。見ていてつまらない人はいっぱいた。1回やったけどもう声がかからないという人もいっぱいいた中で、やっぱり西条先生の振付はキャッチーで素敵な振付だったから、いろいろな番組の振付をやっていました。
近年では、SANCHEもジャニーズの番組はレギュラーで入ってるんじゃないかな。ギャラがどこから出てるかわからないけど、専属の振付師をつけることは番組にお金がないとできない。
「ザ・ベストテン」はいろいろな振付師がやっていて、番組で、これは西条先生が集める、これは名倉先生が集める、みたいな感じだった。俺がやってたときも俺が集めてやってた。名倉先生は「サウンド・イン〝S〟」の振付もやってた。
世の中に〝コレオグラファー〟という職業名を広めたのが西条先生。「夜のヒットスタジオ」で、最後のエンドロールじゃなくて、曲名の横に〝コレオグラファー・西条満〟と出たのは西条先生が初めてだと思うよ。ラッキー池田や南流石が番組側に結構言ってくれて実現したんだよね。
——— アーティストにダンサーが付いている今とは全然違いますね。
三浦: そうですね。だから昔は番組についてたから歌が同じでも、番組が違えば毎回違う振りだったんですよ。振付師もレギュラーで番組に付いていて、歌手が専属ダンサーを連れてきたかったら持ち込みという形で連れて行く。例えば、僕がWinkの振付をやっていたときは、レギュラーの振付師がいる番組にもWinkと一緒に僕が行ってやっていた。そういう場合は、お互い「ごめん。ほんとはレギュラーがやらなきゃいけないけど、歌手が言うからしょうがないよな」という感じになります(笑)。でも、よほど売れている人じゃないとOKはしてもらえなかったとは思いますね。例えば、バンドが付いてる歌手がバンドを連れて行くのと同じだった。お抱えのダンサーを持ち込む場合、歌手の事務所側が払わなきゃいけなくなるからギャランティの問題も出てきますからね。新人アーティストや売れていないアーティストには非現実的だったと思います。歌手がチームとして出たいか、そうじゃないかの意識にもよると思う。歌に振りが付いてると、違う人に違う踊りをされるよりも、いつものをチームとしてやったほうがいいしね。
そういう意識は、アメリカのアーティストは、ツアーにダンサーが付いていて常に一緒に回るという風習からきてると思います。日本では、郷ひろみさんが浩子さんたち専属ダンサーと、全て同じ振付で音楽番組やツアーに出はじめたことから始まったという気がします。
——— では、私がバックダンサーをした「GOLDFINGER '99」は1999年なので、約25年前くらいから流れが変わったのですね。当時は、西条先生の他に活躍していた振付師の方はいますか?
三浦: 山田卓 (※4) 先生ですね。その先生が宝塚の振付もしていたり、振付師の大元のような存在で一番偉かった。少年隊の「君だけに」の振付も卓先生ですね。とても怖い先生で、振り付けるときタバコを吸うんだけど、夢中になると忘れてやけどしちゃうくらい熱心(笑)。卓先生は、音をかけないで自分でパーカッションを叩いて振付していましたね。
※4 山田卓・・・西条満の師匠。元・日本ジャズダンス協会会長——— 音をかけないで振り付けするんですか!?
三浦: 山田卓先生と西条先生だけは譜面をもらって振り付けしていました。今は必ず音があるけど、昔は日劇とかに振付するときは、ピアノ一本の音しかないの。ドラムが入るわけでもなく、マスターリズムという譜面で、メロディーラインと、他に少し情報が書いてあるだけのもので振り付けしなきゃいけなかったんです。どこにどういう音が入っているか全然わからない。
僕も、師匠がそういうスタイルでやっていたから譜面をもらうけど、「譜面ちょうだい」と作曲家にいうのは、卓先生と西条先生と、僕くらい。変調は譜面がないと分からないからね。譜面見て、ここにダダダという音が入る、とか、アクセントのところだけチェックつけて、そうすると覚えなくていいから音聴くよりずっと楽(笑)。
今はコンピューターの打ち込みだから譜面がないけど、僕の後輩で作曲やアレンジをしてるやつには今も「譜面ちょうだい」と必ず言います。例えばCXの生音でやっている番組なんかは、スコアとか「全部載ってる譜面ちょうだい」と必ずもらいます。
りんけんバンドの曲で振付をやっていたときは、りんけんバンドも打ち込みだから譜面がなくて「コンピューター譜ならあります」というから、それをもらって振付していました。りんけんバンドは変拍子がたくさん出てくるのですが、音だけ聴いてると分からないけど、譜面があったらそれが分かるから、今も作曲家に「音楽家なら譜面くらい書けよ」と無理矢理書かせることもあります(笑)。でも、今は昔と曲が全然違うから、なんともいえないですね。4ビート育ちの人と、8ビート、16ビート育ちの人では違いますからね。
——— 具体的には譜面からどうやって振付するのですか?
三浦: 例えば、音楽を聴いていたら数えて書かなきゃいけないけど、譜面を見ていて「この辺にオイシイ音があるな」と思ったら、チェックして書いてそこに違う動きをハメれば、音にハマって見えるんです。譜面があったらカウントを数えなくていいからすごく楽。
昔でも曲を聴いて振付をしていた人もいると思うけど、海外でもそういう人とそうじゃない人といたと思います。
——— 当時は、振付師の報酬としてはどんな感じだったのですか?
三浦: 振付には著作権がないから、〝1曲振り付けたらいくら〟という感じでもらうんだけど、僕は新人が多いから「安くして」といわれます(笑)。番組と契約している場合は、振付した曲がゼロでも番組1本でいくらという感じでもらうので、例えば5曲振付してもゼロでも値段は一緒。一番苦しかったのはCXの歌番組をレギュラーでやっていたときは、生演奏だから振付があまり必要なくて、年に2~3回しか振付しなかったから、オイシイけど(笑)気持ち的にはやらないでもらうのは嫌でしたね。
——— ダンサーの収入源としては、どんな仕事があったのでしょう?
三浦: 仕事としては、振付、バックダンサー、ちょこちょこはあったスタジオでの教えですかね。売れている歌手には営業にもダンサーがついていたから、そういうので稼ぐダンサーもいたし、他には、芝居の中に出てくるダンスのシーン、例えば、映画のダンスホールのシーンのエキストラとかね。
僕がダンサー時代にやったのは、イベントやお祭りのショーで踊ること。あとは、劇団木馬座の着ぐるみ人形劇「カエルのぼうけん」の着ぐるみの仕事。子ども用のショーだから春休み、夏休み、冬休みと全国5カ所くらいで一気にやるから、5組くらい必要だし、国立劇場でもやったりするから、そこで稼いでいました。僕は役者として入ったけど、大学のダンスの先輩から「ダンサー登録にしたら役者よりもギャラ高くなるぞ」といわれてダンサーとして登録しました(笑)。ダンサーが稼げるバイトという感じで、文化庁の事業で海外に行く前のバレエダンサーや、モダンダンサーの人たちも着ぐるみの中に入ってバイトしていました。1カ月公演だから結構お金になるんですよね。だからダンサーの収入源は今と変わらないと思う。ジャズダンスだけで飯食っているやつは少なかったですね。
あとは、小屋(劇場)に所属してるダンサーもいました。当時は劇場ごとにレビューショーをやるダンスチームがあって、日劇(日本劇場)は日劇ダンシングチーム、新宿コマ劇場には新宿コマダンシングチーム、浅草国際劇場はSKD(松竹歌劇団)というチームがありました。そこのダンサーたちは、公演が空いてる時期に、その劇場で歌手がやる歌謡ショーのバックダンサーなどもしていたし、新宿コマダンシングチームは外部にダンサーを貸し出すこともしていてコマプロというエージェンシーも存在していましたね。
あと、ダンサーの稼ぎ口といえば、クラブ(キャバレー)のショーですね。
——— いわゆるキャバレーのようなクラブで、ちゃんとダンサーがショーをしていたのですね。
三浦: 昔のクラブには必ずショーが付いていたんです。クラブも、「ミカド」、「ニューロイヤル」、「別世界」、「コパカパーナ」などというお店があって、全て小屋付きのダンサーたちがいました。「コパカパーナ」はフランク・シナトラが来たりビッグイベントやショーをしていた。ラスベガスのショーや、パリのムーランルージュなどを意識していたと思う。実際に新宿には「ムーランルージュ」という名前の小屋もありました。
バックダンサーは単発の仕事はあっても、今みたいにずっとツアーを回るような人は少なかったから、当時のダンサーはバックダンサーよりもそっちの方が収入の主流だったかもしれませんね。ショーに出たら、お金も貰えて、勉強にもなりますからね。
短期間ですが一緒に西条先生のアシスタントをやっていた平山高良氏は、「西条先生以外の振付も受けてみたい」とあえてそういう場所に勉強するために入ったりしていたし、女性ダンサーにもそういう人たちはいましたね。
その中でも、日劇のダンサーが「日劇では給料がこれくらいだけど、ミカドはもっと高いから」といってミカドに移ることもありましたが、そういうのは選ばれたほんの一握りの人の話で、あとのダンサーは他のアルバイトをしていたし、辞めて衣装さんになったり、そういうのは今と一緒ですね。
——— クラブのショーはどんなものだったのですか?
三浦: 例えば、ミカドなんかは、20人ぐらいが上がれる大きなステージがあって、MCやバックバンドや照明や音響もレギュラーでいて、1日の営業時間内に2~3回踊るんです。演出家もちゃんといて、洋楽や歌謡曲を使って、タップも演歌も日舞も取り入れてのショーを作っていました。お客さんは、高いお金を払って見に来てくれるわけだから、ちゃんとした舞台でしたね。
西条先生は、大阪から出てくるときミカドに呼ばれて出てきたと聞いています。大きい都市には必ずそういうクラブがあったから、スカウトされてきたんだと思います。始めは部屋がなかったから「しばらくミカドの衣装室で僕は寝たんだよ」と言っていましたね。大手のプロダクションの人である渡邊美佐さんが「大阪にこういう男がいるからどうだ」と紹介してくれたと聞いているから、その頃はフランク・シナトラが出演したり、そういう所が花形の社交界というか、憧れのステージで、そこに出演することはメリットがあったんだと思います。西条先生は、そこで「振付がすごくいい」という評判を得て、渡辺プロでやらないかと声がかかったそうです。
——— 先程、"ジャズダンスと違うジャンルもやりたいからクラブのショーに出る"という話がありましたが、当時のダンスのジャンルはどのようなものがありましたか?
三浦: 当時は、ジャンル分けはありませんでした。お店(小屋)に入っていると全部の踊りやらなきゃいけないとから、日劇やショーの出身の人は、日舞もできるし、タップもできるし、全部踊れる。だから、僕やジャズの先生が言われてたのは「お前らかわいそうだな」と。「三浦はジャズばっかりで他のやつできないから、勉強しなきゃいけないね」と。だからタップやフラメンコや日舞を見よう見真似で少し練習したりしましたね。
西条先生は、バレエあがりで、ジャズの先生になって、その後、日舞もタップもやるようになった。スパニッシュだけ「難しいからできない」と言っていたけど、ハワイアンも後から習得していましたね。
昔は、モダンか、バレエか、ジャズくらいしか分かれていなかったんだよね。ビートで踊るダンスはマイケル・ジャクソンからだから、まだ日本に入ってきていなかった。
僕から言わせると今はジャンルを分け過ぎだと思います。「シアター」といってみたり、コンテンポラリーは自分の発想のままやればいいだけの話なのにね。変に分け過ぎていて、そっちに縛られてる感じがしますね。
ジャズダンスを掘り下げるのなら、フレッド・アステアとか、あの辺から引っ張ってくるといいと思う。例えば、マイケル・ジャクソンは、フレッド・アステアにインスパイアされている。フレッド・アステアの映画のシーンをオマージュしているものがいっぱいある。コインを投げてジュークボックスにポンッと入るやつなんて、フレッド・アステアが映画でやってるんだよね。
——— 当時、日本のダンサーはどんなものから影響を受けていたのでしょうか?
三浦: やはり映画かな。当時の情報源は映画くらいだったからね。ジーン・ケリーやフレッド・アステアなどね。ボブ・フォッシー、フランク・シナトラもかな。僕も「ウェスト・サイド・ストーリー」なんて何度見たか分からないくらい。
個人的な意見だけど、ボブ・フォッシーも素敵だけど、振付では誰が好きかといわれたらフレッド・アステアの方が好きかな。フォッシーはエロくて大好きなんだけど(笑)癖があるからね。フレッド・アステアは、僕の感覚ではタップとみないでジャズと見ちゃう。そうすると足さばきや洋服の使い方なんかがすごいよね。音じゃなくて足さばき、洋服をどう着るか、演出のアイディアがすごい。これは西条先生に聞いた話だけど、燕尾服で回るときは芯とって回っちゃダメなんだ。ちょっと振れてないと燕尾服の重さで振られるから。服によって踊り方を変えているんだって。だから、シーンによって足の裾の幅が違ったりするんだよね。
——— ダンサーの衣装やメイク、小道具などはどうしていましたか?
三浦: 小道具に関しては、振付師が提案することもあれば、ディレクターから「扇子使いたい」などとリクエストされることもありました。
衣装は、一応「こういう感じで」というのは言われて、実際どうするかは僕が決めたりとか、衣装会社と話し合いながら決めたりしてましたね。今はサイズを予め向こうに提出するけど、当時は全部同じサイズのものを「はい」と渡されるだけだから、正面しか見せない振りのときは、背中を雑に縫って合せたりしていました。
衣装さんというよりは提供されるだけだから、その頃のダンサーは針と糸が使えなかったらダンサーじゃないというくらい必ず用意していました。
舞台の場合は事前にもらうけど、テレビの場合は当日しかリハーサルをしないから、だいたい当日に衣装をもらって、それから本番までの時間で直す。でも、「これは無理」「これでは踊れない」という衣装もたくさんあって、衣装さんと揉めることは多かったですね。結局、自前で用意します、ということになったり、近くに買いに行ったりしていました。だから、後半は衣装代として少し上乗せしてギャランティをもらえるように交渉していたね。メイクさんもいるけど、ダンサーたちはほとんど自分でやっていたし、ヘアも、踊っても飛ばないようなものを自分でアレンジしてましたね。テレビ局の人たちはダンサーを道具としかみていなかったからね。しょっちゅうケンカする。演出スタッフもそこまで考えてないんだよね。
——— 今はダンサーの扱いもだんだんよくなってきましたが、昔はそうでしたよね。
三浦: 例えば、荻野目洋子の「ダンシングヒーロー」も、振りが出来上がって、今日撮りという日に、音合わせやってたら事務所の社長が来て「先先、悪いけど全部総とっかえしてくれ」と言われた。でも、もう間に合わないから、今日1日だけこれでやらせてもらっちゃおうと、そのまま撮ったら、カメリハを見た社長から「最高の振付!」と言われたこともあるよ。同じことやってるのに(笑)。
その頃は「ここ直して!」が当たり前だった。振付師が考えていることを、ディレクターやスタッフが理解しきれてなかったんだよね。
——— その時代はディスコも流行ってましたよね?
三浦: 僕たちの頃は、逆にプロのダンサーはディスコに行かなかい風潮がありましたね。背筋を伸ばしたきれいな踊りしているのに、ディスコは背中を丸めて踊る踊りで全然違うからあえていかなかった。
だからプロのダンサーの活躍する場所と、ディスコシーンのダンスの流行とは別でしたね。でも、僕はディスコに行ってたから(笑)、プロのダンサーは逆に珍しがられたけどね。
当時は、アメリカのダンス番組「ソウルトレイン」は2~3年遅れて入ってきてテレビ東京でやっていたけど、映像はほとんどないから、僕たちはディスコステップ(ソウルダンス)を、福生の米軍基地からディスコにくる外国人たちやディスコの従業員から習っていたんです。教わるというよりは列になってるからそこに入って真似するみたいな感じ。
西条先生もディスコは行っていなくて、行くと怒られたから行ったのを皆内緒にしてた(笑)。僕はアシスタントに付く前から行っていたから言われなかったけどね。土居先生もしょっちゅう行っていましたよ。ディスコで遊びながら生まれたダンスもあって、ピンクレディーの振付は、その頃流行ってたディスコダンスに結構影響を受けていた。
西条先生も、レッスンでは、セックス・マシ―ンとか、そういう曲をかけて皆を遊ばせておいて、そこからいい振りをピックアップしたり、ちょっとだけアレンジを変えて作ったりね。だから、ソウルステップが歌謡曲に入っていったのはこの頃だね。
——— 三浦先生はディスコで振付のインスピレーションを受けていたんですね。
三浦: 白金台にあった「ダンステリア」というディスコのニック岡井とは仲間だよ。年齢は僕が上だったけど、未だにニック&チャッキーのチャッキー新倉とは月1で遊んでいて昔の踊りを踊っているよ。その頃、ソウルミュージックはテレビでもそんなに流れてはいなかったし、ディスコでもテレビでも流行っていた曲はヴィレッジ・ピープルのYMCAくらいかな。YMCAは、NHKの「レッツゴーヤング」の女性ディレクターが「先生なんか新しいのない?」というからディスコに連れて行ったら、そのときYMCAを踊っていて「やってごらん」といって踊らせたの。その後に、「皆でできるから」ということで、西城秀樹の「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」ができたけど、最初にYMCAを歌ったのは「レッツゴーヤング」の中で結成されたサンデーズというグループだと思う。第一回世界ディスコダンスコンテスト(1978年)で優勝したテディ団が、ソウルトレインで踊っていたときに「こういうのを入れた方がいいんじゃない?」とアドバイスしたこともあったよ。
——— ディスコで流行しているダンスがテレビ界に入っていったという感じなんですね。
三浦: 例えば、田原俊彦のバックダンサーをしていた「ジャPAニーズ」は、ほぼ元ディスコの従業員だったよ。最初の方はバックダンサーをやりながら従業員もやっていた。ソウルトレインというディスコの店長をやったりね。メンバーは最初6人だったのが4人になって、田原俊彦だけじゃなく、ジャニーズの若手のバックダンサーをやったり「レッツゴーヤング」にはレギュラーで出ていたね。その前から「ギャラクシー」などはいたけど、お抱えバックダンサーという形はここら辺から始まったのかもしれません。
「ジャPAニーズ」は、西条先生の振付も自分たちの方に引っ張っていっちゃう踊り方をしてたんだけど、西条先生もそれでOKしていましたね。田原俊彦の振付も西条先生がやってたけど、先生が付いてないときは自分たちで勝手にやっていたんじゃないかな。
でも、「レッツゴーヤング」の途中で降板したと思う。それはたぶん、ジャニーズJr.ができてジャニーズのタレントのバックで踊るようになってきて需要が減ってきたんだと思います。最初「レッツゴーヤング」はスクールメイツだけで、男が欲しいということで「ジャPAニーズ」が起用されて、その後、「ジャニーズJr.」ができて…という流れですね。
——— バックダンサーの男女の比率はどんな感じでしたか?
三浦: 昔はペアダンスが多かったから、だいたいレギュラーでいうと女の子が5人だったら男も5人。でも、男より女の子の方が華やかだから、だんだん出演は女の子だけになっていっちゃいましたね。男は少ないのに、男の方が下手だからね。でも、いつかの小柳ルミ子さんの紅白のステージは、50人くらい全部男だけで踊ったこともあったし、それくらいはいたんだよね。NHKの709リハーサル室が男だらけ(笑)。でも、結局男は生活問題が出てくるから続けるのは難しい人が多かった。そうすると、ダンサーで生活していくというのは、結局、若くて実家暮らしで、経済的な心配がない子だけ残るみたいになっちゃってたんですよね。
——— 三浦先生から見て、今のダンサーやダンスシーンをどう感じていますか?
三浦: 作詞家の阿木燿子さんが言っていた言葉が印象的だったんだけど、振付も歌も「昔の方が、行間がちゃんとあった」と言っていた。行間があると、その行間の白い部分を考えることができるけど、今の曲や振付は詰め込み過ぎて全部同じになっちゃう。例えば3人に振付したら、3人全員違う感じだったんだけど、今は3人全部同じに見えちゃって、見ていてつまらないよね。振付を見ても何をやりたいのか分からないものが多い気はしていますね。
——— ダンス自体についてはどうですか?
三浦: 僕は身体のラインがきれいなダンスがいいなと思っていて、ジャニーズの振付師のSANCHEに、「ジャニーズの子たちが、ラインがきれいな踊りを始めたら他もやり始めるから、SANCHE振付しろよ」といったら「先生やってください」と逃げられた(笑)。今のダンサーはラインがきれいじゃないんだよね。名倉先生とかは未だに教えていると思うけど、いわゆる学校などではやっている人がいないから、きれいな踊りを残して欲しいと思っていますね。
そうですね。王道のジャズダンスもずっと後世に残って欲しいですね。
今日は貴重なお話ありがとうございました!