石川浩子インタビュー
90年代よりダンサー・振付師として活動してきた石川浩子が、ダンサーや振付師の歴史を紐解くべく、70年代よりダンス界や歌謡界で活躍してきた方々にお話をお聞きしました。

菊地ヒロユキ Profile
西条満先生に師事。音楽番組、コンサート、舞台、CM等に携わり振付やダンスの基礎を学ぶ。
【主な経歴】
五木ひろし、伊藤蘭、黒木瞳、小泉今日子、酒井法子、シブがき隊、純烈、長山洋子、仲間由紀恵、南野陽子、美川憲一、水森かおり、早見優、氷川きよし、ホンジャマカ、山内惠介など。
現在もテレビ、コンサート、ドラマ、舞台、CMなどで活動中。
Interview
今日は70~80年代のダンサーの実態についてお話いただきたいと思うのですが、よろしくお願いします!
——— まず、菊地先生ご自身がダンスを始めたきっかけを教えてください。
菊地: 僕は、高校生のときに歌がやりたくて、渡辺プロダクションがやっていた新橋の東京音楽学院に入りました。東京音楽学院が出来てから10数年後だったと思います。
そこでダンスの先生だったのが、西条先生や三浦亨先生でした。僕は一応、歌やダンスのレッスンはしていたけど、西条先生が「この子は身長がないからデビューは難しいと思う。でもせっかく来たんだし、従順でいうことも聞いてくれるし、一生懸命な子だから」と、アシスタント1号にしてくれたんです。
ダンス以外でも、宛名書きなどもしたり、付き人のようなこともしていて、西条先生の振付の仕事は全てアシスタントに入ってずっと一緒にいました。
僕は東京音楽学院では歌をメインで勉強していて、踊りは本格的にやったことがなかったので、振りが覚えられなくて、スクールメイツの子は覚えが早かったからついていけませんでした(笑)。
西条先生は、振付したら「菊地やっとけよ」といってすぐ次のところへ向かうという感じで、その頃は正月もないくらい忙しかったですね。深夜は当たり前でした。テレビ朝日が六本木にあった時代に、よく22~23時くらいから光GENJIなどジャニーズの振付をしていましたね。あの頃アイドルは3カ月に1回新曲をリリースしていましたからね。唯一のリラックスタイムは西条先生から頼まれて、西条先生の車を運転して馬券を買いにいくことでした(笑)。
——— どのくらいの期間アシスタントをなさっていたのですか?
菊地: 西条先生のアシスタントは20年以上やっていました。独立させてもらったのが40歳過ぎです。奥さんがいろいろやってくれて株式会社HKグラウンドという一度会社を作りましたが、今はやめて個人事業として、西条先生のおかげで繋がることができた、演歌の方の座長公演や新曲などの振付や、NHK系の仕事をしています。去年はBS朝日の「人生、歌がある」という疋田卓さんの番組でダンサーに振付をしました。当時怒られながら教わったことが生きていて、今も振付師としてやらせてもらっている感じです。
——— 西条先生はどんな振付師でしたか?
菊地: 振付師としてはセンスもこなし方も天下一品でしたね。一曲の中に完結するストーリーができている。そういう振付ができる振付師は他にいませんでした。
西条先生は、「野球やボクシングなどにも全部振りの要素があるだろ」ということをよく言っていました。「例えばフレッド・アステアのように、歩いてターンしてポーズして、というのも生き様の中にもあるじゃないか。どたどた歩くやつもいればスマートに歩くやつもいる。それら全てが振りにいきている」と。
——— どのような感じでお仕事が回っていたのでしょうか?
菊地: 西条先生は自分の会社を始める前に、「ザ・ベストテン」の演出の方や、ミュージシャン、ヘアメイクさんなどがいる、エトバス企画というところに振付師として所属していたんです。その頃に僕はアシスタントになったのですが、そこは1年くらいで辞めて、青山にダンシングオフィス西条(※2022年クローズ)を作りました。
当時は、多いときで7人くらいがアシスタントとして給料が出ていて、紅白歌合戦のときにリハーサル室の廊下で先生中心に男ばっかりで並んでいたから〝西条軍団〟と呼ばれていました。女性も1人くらいいたけど基本男でしたね。女性は自分が表に出たい人が多かったからアシスタントになる人は少なかったのかもしれません。裏に回っていい人や、将来振付をやっていきたい人がアシスタントになっていた感じです。
番組からの依頼だけじゃなくて、タレントの事務所から依頼がきて新人の新曲を振り付けるということをたくさんやっていましたね。
——— 当時はどのような生活だったのでしょうか?三浦先生はディスコによく行ったとおっしゃっていましたが、菊地先生はどうでしたか?
菊地: 西条先生に付く前ですけど、大学入った頃はディスコが好きでディスコ通いしてましたね。よく行っていたのは、新宿にあった食べ放題・飲み放題の「カンタベリーハウス」や「シンデレラ」。チークタイムになると白いカーテンが降りてくるんです(笑)。ディスコが流行ったきっかけはジョン・トラボルタの「サタデー・ナイト・フィーバー」ですよね。それまではある意味コアな存在だったと思います。でも、アシスタント時代はディスコに行く余裕もなかったですね。
当時は歌番組のダンスは、基本ジャズダンスだったから、ディスコの踊りは番組では使うことはできませんでした。ロボットダンスやファンキーな踊りをやれる子は多かったけど、必要とはされていませんでしたからね。
——— 当時の歌謡界のお話をお聞きしたいのですが、菊地先生は「スクールメイツ」にいらしたんですよね。
菊地: 僕は高校のときにスクールメイツに入って、1年後には「紅白歌のベストテン」でポンポンを持って、白いコットンパンツを履いて踊っていました。白組は男性のスクールメイツ、紅組は女性のスクールメイツがオープニングなどをやっていました。
当時は各テレビ局が音楽祭を作っていて、賞獲りレースも盛んで、そのオープニングを飾ったのもスクールメイツです。当時は一日で掛け持ちもありましたし、普通のアイドルより忙しかったと思います。
スクールメイツは、予科、本科、高等科、研究科、などいろいろクラスがあって、段々上がっていくようになっていたんです。予科A、予科B、その上に本科があった。
スクールメイツは、東京音楽学院の中で選ばれた子たちのグループでしたが、東京音楽学院では、歌や踊りのレッスンがレギュラーで毎週1~2回ぐらいあるんですけど、それとは別に〝スクールメイツ〟という、スクールメイツになりたい人用のコースがありました。東京音楽学院ができた頃からスクールメイツはあったと思いますが、初期はタレント養成という要素が強かったから歌のレッスンがメインだったけど、後半はダンスメインになっていきましたね。
——— スクールメイツになりたい人のコースがあったのですね。それだけ人気があったということですよね?
菊地: 当時は倍率がすごくて、何千人応募がきた中で70人ぐらいしかとらなかったようです。スクールは東京だけじゃなく、名古屋校から福岡校、広島校、大阪校、静岡校など全国にありました。福岡校は森口博子さんなどがいたし、静岡校だと川島なお美さん、東京校は高橋真梨子さん、太田裕美さん、キャンディーズなどがいました。野口五郎さん、布施明さんも東京音楽学院でしたね。
——— 当時、他にもスクールメイツのような団体は存在していたのでしょうか?
菊地: あの頃は東京音楽学院みたいな芸能の学校が他にはなかったので、たぶん東京音楽学院が初めてだったと思います。その後、日本テレビ音楽学院が、ピンクレディーの振付の土居甫先生が中心となったグループ、ザ・バーズというのを作りました。
スクールメイツがレギュラーだった「紅白歌のベストテン」という堺正章さんと榊原郁恵さんが司会をしていた毎週生放送の番組があったのですが、その番組は日本テレビの音楽番組だったから、日本テレビ音楽学院ができてからは全部ザ・バーズになってしまった。そこから日テレ系の音楽祭は全部ザ・バーズがやっていたし、単独でレコードデビューもしていたはずですが、なぜかザ・バーズは長くは続きませんでしたね。
——— スクールメイツはいつまで続いたのですか?
菊地: 実は未だにスクールメイツはあるんです。元スクールメイツの方がダンスを教えていて、少人数ながら〝スクールメイツ〟という名前は残して、需要があれば仕事をする感じのようです。だから、今もスクールメイツ風にやりたいというディレクターは多いですが、スクールメイツ風の衣装を着て〝スクールメイツ〟という名前を使うのはNGなんですよ。
——— スクールメイツは他にどのような番組に出演していましたか?
菊地: スクールメイツは、「夜のヒットスタジオ」など、フジテレビの疋田卓さんの演出で、西条先生が振付するという組み合わせが多かったですね。「夜のヒットスタジオ」は、専属でDeeDeeというダンスチームを疋田卓さんが作って、西条先生が振付してという形で売り出しにかかったけど、女の子20人くらいだったから大変だったし、結局は終わってしまった。最初はDeeDeeはBGMという名前だったけど、デビューするにあたってDeeDeeになった。
DeeDeeの前はスクールメイツがやっていたから、DeeDeeは番組の最後の方ですね。タイトルが「夜のヒットスタジオ」から「ヒットスタジオ・デラックス」に変わった頃からだったと思います。「ヒットスタジオ・デラックス」には同時期にスクールメイツもいたので、全部西条先生が振付していました。
——— 他に専属ダンサーがいた番組はありましたか?
菊地: 土曜日の23時から30分のTBSの音楽番組「サウンド・イン〝S〟」などですね。「サウンド・イン〝S〟」は、僕がスクールメイツに入る前だったので、テレビで見ていただけでしたが、ホリデーガールズは名倉先生が振付していたから、名倉先生が中心になって集めた人たちだと思います。スクールメイツより前か同時期くらい。基本的に名倉先生の番組では、名倉加代子ダンススタジオの方たちが出ていたと思います。「サウンド・イン〝S〟」の後番組「ナイトスクエア」も名倉先生が振付していて、その後西条先生になりました。名倉ダンススタジオのダンサーの方の他に、西条先生と小井戸秀宅先生がノーギャラダンサーズという名前で出ていましたね。
ノーギャラダンサーズは、他にもフジテレビの「素敵なあなた」という浅野ゆう子さんが司会の番組にも出ていました。ノーギャラといいつつ多少は振り込まれていましたけどね(笑)。
あとは、ダンサーではないですが、サンデーズという歌番組「レッツゴーヤング」のレギュラーのタレントの卵たちにも西条先生が振付していました。男3~4人の女性5~6名くらいだと思います。リハーサルを毎週木曜日にやっていたのを憶えていますね。
——— 当時のダンサーの環境についてもお聞きしたいのですが、ダンサーのお仕事はどのように回っていたのでしょうか?
菊地: 当時BMCという会社があって、ダンサーの依頼は全部そこに声をかけるという感じでした。「ザ・ベストテン」も「紅白」も、当時の音楽番組はダンサーのキャスティングといったら、スクールメイツ以外はほぼBMCでした。ダンサーは皆フリーでしたが、お仕事の依頼がBMCに来るので、BMCが個々のダンサーを集めていた感じです。他にそういう会社はなかったと思います。紅白のときは30~40人は軽くいたし、小柳ルミ子さんが男性ダンサーを従えて踊ったときも全部BMCが集めていました。この頃はヒップホップという言葉もなかったから、男性はタキシードを着て女性のサポート的な役が多かったんです。
今だと振付師がダンサー選ぶことが多いけど、その頃はだいたいBMCがピックアップして連れてくるダンサーが多かった。西条先生が「今回、男が何名欲しいんだけど」というと連れてきてくれる。連れてきたダンサーを替えるというのは基本的にはなかったですね。BMCは業界を牛耳っていたから忙しかったと思いますね。
この頃は、ギャラクシーという男性4人組グループがあって、女性のグループはクウィーンズというグループがありました。ギャラクシーの下にダンディーズというグループもあったのですが、これはダンサーがBMCの所属で出演したときにダンディーズという名前で出ていたんです。
テレビ番組「ミュージックフェア」は、昔は日曜日の夜の番組で、その頃は「ミュージックフェア」に出れる歌手というのは本当に厳選されていて、そこにもBMCが作ったダンサーズたちもエンターテインメントショーみたいな感じで、西条先生の振付でたくさん出ていました。
——— スクールメイツも含めて、当時、ダンサーの衣装はどのような感じでしたか?
菊地: 番組ではダンサーも東京衣装という会社に提供してもらっていました。東京衣装には衣装がストックしてあるから、それを需要に応じて持ってきてもらってダンサーに着せるんです。東京衣装の部屋があって、テレビ局に窓口がいました。今でもNHKにはあって、時代劇や大河ドラマなどの衣装をやっていますよ。
「レッツゴーヤング」には企画モノのコーナーがあって、少年隊がウエストサイドストーリーをやったり、バスケをしながらパフォーマンスしたりしていましたが、そのときも東京衣装さんが企画に合わせてジャンパーなどを用意してくれました。
スクールメイツは基本、レオタードとスコートとTシャツとポロシャツとポンポン。それは東京音楽学院で持っていたので、衣装は持ち込みが多かったですね。「夜のヒットスタジオ」では、スクールメイツ全員が懐中電灯を持ってタレントさんの後ろで踊る演出が多かったのですが、懐中電灯も持ち込みでした。
——— ダンサーのギャランティはどのような感じでしたか?
菊地: スクールメイツは月給制ではなく〝1回やるといくら〟という感じでした。まず東京音楽学院に入ってから個人に支払うという流れです。西条先生はあくまでも振付師なので、振付料をもらって振付するだけで、スクールメイツの選抜やギャランティには関わってはいませんでした。
——— 当時もダンススタジオで教える仕事もあったのでしょうか?
菊地: 今のように毎日朝から晩までクラスがあるスタイルのスタジオはなかったですね。先生たちが個人的に〝何曜日の何時から何時までレッスンをする〟という形でそれぞれ教えるという感じでした。西条先生も表参道で西条ダンシングジムというダンススタジオをやっていました。ジャズダンス協会の「第一回ダンスフェスティバル」にも、西条ダンシングジムのメンバーで出演しました。でも、全盛期だったので、あまりの忙しさに休講続きで部屋代だけがかかっている状態が続いて、3年くらいで閉じてしまいましたけどね。
——— ダンサーの仕事について、時代の変化を感じたことがあれば教えてください。
菊地: 僕は、ダンシングオフィス西条を卒業したあたりで需要が少なくなってきたと感じました。アーティストが個人的に振付師を雇うようになってきた頃なのかもしれません。一旦離れてまた戻ってきた仕事などもありますけど、黒須洋嗣先生が郷ひろみさんを振付し始めたあたりから音楽やビートが変わってきたので、振付も踊り方も変わってきて、一世を風靡した昭和の感じは終わってきたのかなと思います。
90年代くらいにはヒップホップが主流になってきて、昭和の匂いはいらないという感じになった。80年代はアイドルやジャニーズの時代でしたが、90年代に安室奈美恵さんやSPEEDなどavex系が出てきたときに、ガンガンいく踊りが流行ってきましたからね。
西条先生も亡くなる直前までフォーリーブスなどはやっていましたけど、テレビ局の振付がなくなってくると共にお仕事は減っていたと思います。音楽番組の衰退は大きいですよね。音楽祭もなくなっちゃったし、今は唯一「日本レコード大賞」が残っているくらいですもんね。
——— 昔のダンサーと、今のダンサーの違いについて思うところはありますか?
菊地: 紅白歌合戦で大人数のダンサーを使ったときに、リハーサルで、帽子被ったままとか、靴が外履きのままとか、稽古着ではない服を着ているのが当たり前の若いダンサーたちがいました。それは昔では考えられないことですからね。しかも、そのときたまたま当時のアイドルの振りを踊ることになったのですが、「こんな振りやりたくない」みたいになって、空気が悪くなってしまい、振付師の先生が「こんなんじゃやれない」と出ていってしまって、仕切っていた中堅のダンサーがなんとか皆をなだめて本番を迎えたことがありました。
でも、最近はまた昭和がブームになっているんですけどね。今BSの番組は昭和歌謡一色です。若手のポップスや演歌の子たちがカバーして番組で歌うのは昭和の曲ばかり。民放で歌番組がなくなってしまいましたからね。
——— YouTubeなどで昭和歌謡を知った10~20代を中心にブームになっていますよね。
菊地: 実はTikTokで、当時のスクールメイツの方たちが、昔の曲で、西条先生が作った振りをそのまま練習して、衣装も当時と同じくスコート履いてTシャツ着て、「TEAM 80’S」という名前で踊っているんです。振付はまさに西条先生ワールドで、トシちゃんの「哀愁でいと」とか、かなりバズっているんですよ(笑)。
トシちゃん(田原俊彦)、マッチ(近藤真彦)、シブがき隊などのバックでずっと踊っていて、ショーのオープニングなどもやっていた10人くらいの方たちが、今は皆50~60代になっていますが、「死ぬ前にもう一回スクールメイツとして出演したい」という話からはじまり(笑)、「それならちょっと協力してあげよう」と、3週間に1回くらい集まってレッスンをしています。
今、BSテレビ朝日の「人生、歌がある」という毎週土曜日の19時からオンエアしている番組があるんですが、「夜のヒットスタジオ」を作った疋田卓さんがプロデューサー兼演出家で、未だにその匂いを出しつつ作っている番組です。そこにトシちゃんが準レギュラー的に出ていて、この間たまたまお会いしたとき「トシちゃん、あの頃NHKホールを沸かせた元スクールメイツを番組で使って!」とお願いしたら、「あ。はい・・・」という冴えない反応だったけど(笑)もしかしたら何かで出してくれるかもしれないと期待しています。
そうなんですね!またテレビで当時のダンスが見れることを期待しています!
今日はありがとうございました。